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大阪地方裁判所 昭和39年(わ)2053号 判決 1965年4月23日

被告人 西村光夫

昭九・一・九生 スタンド経営

北内幸一

大一三・五・二生 バーテン見習

主文

被告人西村光夫を罰金二五、〇〇〇円に処する。

右罰金を完納できないときは金五〇〇円を一日に換算した期間同被告人を労役場に留置する。

訴訟費用中その二分の一を同被告人の負担とする。

被告人北内幸一は無罪。

理由

(罪となるべき事実)

被告人西村光夫は大阪市南区難波新地一帯に勢力を持つ神戸諏訪組系登竜会(会長大山義八郎)の副会長であり、売春周旋のいわゆる「しけ張り」などをしているものであるが、昭和三九年五月二七日午前一時頃、大阪市南区難波新地二番丁二六番地やぐら旅館付近の路上において右「しけ張り」をしていたところ、たまたま通行中の知人より同伴の事務員藤田紘一(当時一九年)の宿泊旅館の斡旋を依頼されこれを諒承し右藤田が一人で宿泊したい旨申し述べたので同人を案内して同区難波新地一番丁二九番地の新富旅館に赴いた。ところが相当飲酒していた右藤田は同旅館東入口において被告人西村に対し、自分の靴をぬがせるなど、横柄な態度をとり、さらに同旅館二階洋室「ぼたんの間」に案内されてからは被告人に対し「俺を一人でねかすつもりか、われはどこの舎や」などと言葉荒く言つてからみ、立ち去ろうとする同被告人を壁に押しつけ手拳で下腹部を小突くなどの暴行を加え、執拗に因縁をつけたのに対し被告人西村は痛く立腹したが、右藤田の体格が大きくその腕力などからして非力な自分一人ではとうていかなわないと思つて急きよ、同旅館を飛び出し同旅館付近にたまたま居合わせた仲間の北内幸一の応援を求め共に右藤田に対し報復しようと再び右旅館に駆け戻つたところ、同旅館東入口玄関付近において同旅館女将より前記藤田が暴れて同旅館二階の窓ガラスやふすまなどを毀損した旨聞知するや被告人西村は、さらに憤激し、このうえは右藤田に対し一層の制裁を加えあわせて右ガラス等毀損の弁償をさせようと決意し、その頃突如、同旅館西入口より逃げ出した右藤田を情を知らない(器物毀損壊の現行犯人と思つて逮捕すべく追跡し始めた)右北内幸一と共に、同旅館の西北方約二八〇メートルの同区久左衛門町二番地大黒橋中央西側歩道付近まで追跡し、さらに同所付近において転倒した同人に対し、一、二回足蹴りするなどの暴行を加えたものである。

(証拠の標目)(略)

(法令の適用)

被告人西村光夫の判示行為は刑法第二〇八条罰金等臨時措置法第二条第三条に該当するところ、情状について考えて見るに、被告人には、風俗営業等取締法違反の罪等の犯歴があるけれども本件の発端においては被告人西村は顔見知りの長谷川竜太郎から依頼されてむしろ親切心から被害者藤田紘一に対し旅館斡旋の労をとつたもので他意のなかつたこと、しかるに相当飲酒して言動の乱れていた右藤田から一方的に因縁をつけられ暴行を加えられたことがうかがわれること、これに対し被告人西村が立腹し報復のため追跡足蹴り等の暴行を加えたとはいえ、同時に知り合いの旅館の窓ガラス等を損壊して逃走する被害者を逮捕し弁償させようという意図のあつたことも認められること、被告人西村、自身の加えた暴行の程度は追跡行為のほかは、靴下ばきの素足による足蹴りにすぎず極めて軽度なものであつたことなどその他諸般の情状を考慮すれば、罰金刑でもつて処断するのが相当と認められるので、所定刑中罰金刑を選択し、その罰金額範囲内で被告人西村を罰金二五、〇〇〇円に処し、換刑処分につき刑法第一八条、訴訟費用の負担につき刑事訴訟法第一八一条第一項本文を各適用し主文第一ないし第三項のとおり判決する。

(当事者の主張に対する判断)

被告人両名に対する傷害致死の公訴事実に対し被告人北内幸一については無罪とし、被告人西村光夫については暴行罪と認定した理由はそれぞれ次のとおりである。

第一、本件公訴事実の要旨

被告人西村光夫は昭和三九年五月二七日午前一時頃、大阪市南区難波新地一番丁二九番地新富旅館付近の道路上で通行中の藤田紘一(当時一九年)より旅館を斡旋されたい旨依頼され、同人と共に同旅館に赴いたが、同人が「俺を一人でねかすつもりか」などといつてからみ、同被告人をついたり、同旅館の窓ガラスを毀損するなどして逃げ出したことに激昂し同旅館付近に居合わせた被告人北内幸一と共謀のうえ、共に同人を追跡し同旅館の西北方約二八〇メートルの同区久左衛門町二番地大黒橋中央西側歩道付近に至り、同人が転倒するや、同橋欄干との間に同人をはさみ被告人北内において付近にあつた竹箒で同人の頭部等を数回殴打し被告人西村において同人を数回足蹴りし、よつて同日午前一時一五分頃なおも被告人らから危害を受けることを恐れる同人をして逃げ場を失わせ、その場から西側欄干をこえ下方約五メートルの道頓堀川に飛びこませ、間もなく溺死させるに至つたものである。

第二、被告人北内幸一の無罪について

(一)  前掲各証拠のほか、松倉豊治作成の鑑定書、司法警察員作成の検視調書、押収してある竹箒(昭和三九年押第七四六号の一)滝川昭二作成の鑑定書を総合すると、被告人北内幸一が右同時刻頃たまたま新富旅館の東方約四〇メートルの地点に停車させていた自動車助手席にいたこと、被告人西村の後を追い同旅館東入口前付近まで駆けつけ同旅館西入口から逃走した藤田紘一を約二八〇メートル被告人西村と相前後しつつ追跡し、被告人北内において、大黒橋南たもとにあつた竹箒でもつて藤田を二、三回殴打したこと、その直後藤田が、同橋西側欄干をこえ道頓堀川に飛び込み間もなく溺死したことは、外形的にはいずれも認めることができる。

しかしながら被告人北内の右行為すなわち藤田に対し加えた追跡、暴行は以下説示するように、いずれも器物損壊罪の現行犯人として逃走する藤田を逮捕するために行われた法令による行為であると同時に器物損壊の被害者である新富旅館女将下地りくの損害賠償義務者藤田に対し行いうべき自救行為の代行として社会的相当性を有し、違法性を阻却する正当行為の一面をも帯有するものと認めるのが相当である。

(二)  すなわち、既に判示或は説示したように藤田の言動に立腹した被告人西村は車中の被告人北内の所へ駆けつけ上衣を右車内に投げ込み、被告人北内に対し「ちよつと来てくれ」と言い残して再び新富旅館に走つて行つたのであるが、これに対し、被告人北内は、被告人西村の右のようなただならぬ勢いに何事かと不審に思いつつ小走りで被告人西村の後を追つて右旅館東入口前付近まで来たところ、そこで顔見知りの同旅館の女将下地りくや女中森山雪子がものおじした様子で、客が暴れて窓ガラスなどを破つている旨申告するのを聞き、それとほとんど同時に同旅館西入口から素足のまま脱兎のように逃げ出した右藤田を指し右女中らが「あの男や」と叫ぶので被告人北内は同旅館における藤田の被告人西村に対する仕打ちやその経緯を全く知らず、単に右藤田を器物損壊の現行犯人としてこれを逮捕すべくとつさに追跡したものである。かように右藤田は同旅館女中や女将から、器物損壊罪の現行犯人として追呼されたものというべきであつて被告人北内はこれに呼応し、ほとんど反射的にかつ被告人西村より先に、また同被告人と関係なく、まさに法令による行為である現行犯人逮捕行為に着手したものと認めるのが相当である。

(三)  さらに、被告人北内と被告人西村との共謀の点につき検討してみるに、被告人両名は売春のいわゆる「しけ張り」などの仲間であるけれども本件当時、被告人らは行動を共にしていたのではなく、被告人北内は、被告人西村のただならぬ勢いにつられて事情もわからず新富旅館前まで来たのであつて、しかも藤田を追跡したのは、被告人西村の指示によるものでもなく、また被告人の意思をそんたくしてしたものでもない。ただ顔見知りの同旅館女将らの現行犯人追呼に呼応して、逃走する現行犯人藤田を、とりあえず逮捕すべく、即座に追跡行動を開始したものである。しかしてこの段階においては被告人北内は被告人西村の意図を全く知るところなく被告人西村とは関係なく自ら追跡行動に移つたものであるから少くとも被告人北内には、被告人西村の犯行に共同加功する意思があつたものとはとうてい認められない。もちろんその後、被告人北内は右藤田を追跡する途中において、被告人西村も同人を追跡していることを知りさらに大黒橋上においては、被告人西村と共に右藤田に追いつき転倒した同人に対し、前記認定のような各暴行を加え、被告人西村のなんらかの紛争の相手も、藤田かも知れないと思い及んだことも認められるところであるが、前掲各証拠(特に中川清子の調書、浅井正喜の供述)によれば、被告人北内は藤田を追跡しながら被告人西村に対し「早くつかまえろ」と叫び、他方被告人西村も通行人に対し「つかまえてくれ」と叫んでいる事実がうかがえ、右事実と被告人北内が追跡を開始した前記説示の事情等を総合すれば、被告人北内には被告人西村と右藤田を現行犯人として逮捕することにつき共同の意思があつたとしても、被告人西村の犯行に共同する意思があつたものとはとうてい認められない。

(四)  なお、視点を変えて被告人北内の行為を観るならば、器物損壊の被害者である新富旅館女将下地りくの右不法行為藤田紘一に対し行い得べき自救行為の代行として社会的相当性を有し違法性を阻却する正当行為と認めるのが相当である。

すなわち、前掲各証拠によれば下地りくは右旅館の経営者であり、二階で、客が暴れて窓ガラス等を損壊している騒ぎに驚き、女中森山雪子と共に、誰かの助けを求めたい気持ちで慌しく外に出たところ、たまたま、そこえ駆けつけた顔見知りの被告人西村、同北内らに対し被害の申告をしていた際前記認定のとおり、藤田が同旅館西入口より脱兎のように逃走するのを目撃し同人を犯人として追呼したものである。かような場合、もし不法行為者としての藤田が逃走するのを拱手傍観するならば器物を損壊された被害者下地りくとしては、右藤田の氏名住居等を全く知らないのであるから、ついに同人に対する損害賠償請求権(ガラス等の入替修理費約金三、五〇〇円)につき法律上の手続による救済を受けることが全くできなくなるか或は著しく困難になることは火を見るよりも明白である。従つて、右請求権の実行を確保するためには少くとも、直ちに同人を追跡して逮捕し即時同人と賠償につき交渉をするか、或は逮捕して同人の本名、住居等を確認し、後日必要な法律上の手続をとるなどの適宜の措置をとることが是非とも不可欠の事柄である。すなわちいずれにしても、右被害者下地りくが右の場合に逃走する損害賠償義務者藤田を直ちに追跡し、逮捕することは自己の損害賠償請求権の実行を確保するために最少限度必要ないわゆる自救行為として許容される正当行為であるといわなければならない。しかしながら右のように被害者が女性である場合には、自ら、右のような損害賠償義務者を追跡し、これを逮捕することは事実上、不可能なことであつて、かような場合請求権者下地りくの明示又は黙示の依頼により或は同女の意思をそんたくして即座に同女を援助し同女の自救行為のいわば代行を行うことは法治国家においても私人の当然なしうることとして許容されるものと解する。

被告人北内が右藤田を追跡し逮捕しようとした行為は一面、何はともあれ藤田をつかまえ弁償させようとの意思に基づくもので同被告人の側から見れば右下地りくの自救行為の代行というべく、それは同女の自救行為の一部として社会的に見て相当性を有し違法性の阻却される正当行為とも認めるのが相当である。

(五)  なお、被告人北内が、前記大黒橋上において藤田に追いつき付近にあつた竹箒で同人を二、三回殴打した行為は、外形のみを見れば、逮捕行為(ないし自救行為)に通常伴う有形力の程度を越えているのではないかとの疑問がないではないがおよそ何人であつても現行犯人として逃走する者を追跡して逮捕しようとする場合或程度の有形力を用いることなくして、これを果すことは不可能である。そして現行犯人の逮捕行為に伴う有形力として許容される程度は、その現行犯人が逮捕を免れるためにする抵抗の態様、兇器所持の有無等に応じてその相当性が論ぜられるべきことは多言を要しないところである。被告人北内は、藤田を追跡の途中、新富旅館の西方約五〇メートルの中村旅館西側付近において一旦追いつき藤田を逮捕しようとした際、同人がいきなり背広上衣下より刃物ようのものを持ち出して振り廻して反抗したので、同被告人としては身の危険を感じて体をかわしたため、同人を逮捕することに失敗し、その後は同人の刃物に対処するため、たまたま見つけた竹箒でもつて藤田の刃物をたたき落してから逮捕しようとしたものである旨、当初より主張しているものであるところ、全証拠を精査しても、被告人西村が、藤田が刃物ようのものを所持していた旨供述しているほかには、藤田が、刃物を携帯していたことを認めるに足りる証拠はない。ただ被告人西村の司法警察員に対する昭和三九年六月三日付供述調書、小橋信也の司法巡査に対する供述調書、押収してある黒皮バンド(昭和四〇年押第八六号の一)によると、当日藤田は黒皮バンドを着用し、その黒皮バンドが同人の逃走路上である寿司店「青柳」前付近に落ちていたことが認められ、かような事実と被告人北内の前記供述とを総合すると、或は藤田が中村旅館付近において着用の右バンドを引き抜きざま振り廻し、被告人北内に対し反抗したのではないかと推認されるのであつて、被告人北内はこのバンド或はそのバツクルを刃物と誤認したとも考えられないではない。当時、中村旅館西側はやや暗い場所であつたこと、当時の緊急の状態或は被告人らの生活環境等に照らし右のような誤認も、全くあり得ないことではないところであつて、被告人北内の右の弁解も、にわかに排斥し難いものである。果してそうだとすると、被告人北内の竹箒による、殴打行為も右のような状況のもとにおいては逮捕行為(ないし自救行為)として許容される程度を越えたものとはいえない。(なお、被告人北内の行為によつて藤田が傷害を受けたかどうかは極めて疑問である。なるほど、前掲各鑑定書および竹箒によれば藤田の死体には頭部、顔面、胸部、上肢、下肢等にいずれも軽微な打撲擦過傷が認められ、竹箒の一部分に藤田の血液型と同型の人血が若干付着していたことが認められるけれども、右各傷害が、被告人北内の行為により生じたものとは必ずしも断定できない。すなわち藤田は、新富旅館二階において窓ガラスやふすまを素手で割つたりこわしたりし、さらに逃走の途中には寿司店「青柳」前の大提灯に衝突し或はバケツに蹴つまづくなどしさらに一、二度路上に転倒したことが認められるのであつてその間に、各種の打撲、擦過傷の傷害を負い出血し得たことは容易に推認されるのであつて竹箒に付着していた人血が仮に藤田の血液であるとしても被告人北内の竹箒による殴打によつて出血し、その血液が右竹箒に付着したというよりはむしろ、既に藤田自身の行為によつて負傷した部分、例えば右手背部の負傷よりの血液が、たまたま竹箒に付着したものと推認する方がより合理的と認められるのである。

そのほか藤田の頭部等の打撲擦過傷等は、同人が道頓堀川に飛び込んだ以後において、負傷しうる蓋然性は極めて大きいこと、被告人北内の竹箒による殴打行為も横殴りのそれほど強いものではなく、かつ殴打部位も、藤田のその時の姿勢などからして必ずしも明確ではないことなどを総合すると被告人北内の右行為によつて藤田が傷害を負つたものとは、とうていこれを断定することはできない)

以上のとおり、被告人北内の行為は、法令による逮捕行為と認むべきであるから、器物損壊の現行犯人(ないし不法行為者)藤田が逮捕を免れるために自ら逃走路を川中に選び道頓堀川に飛び込み、その結果溺死するに至つたとしても被告人北内に右溺死について刑責の一半を問うことはとうていできないものというべきである。

果してそうだとすると、被告人北内の行為は罪とならないので刑事訴訟法第三三六条により、主文第四項のとおり無罪の言渡をする。

第三、被告人西村の行為と、藤田の溺死との間に因果関係が認められないことについて、

被告人西村光夫の弁護人は、被告人西村は藤田に対しなんら暴行を加えていない、仮に暴行を加えたとしても、右暴行と藤田の溺死との間には因果関係がない旨主張するので次に検討する。

(一)  前掲各証拠を総合すれば判示認定のとおり、被告人西村が藤田に対し一、二回足蹴りの暴行を加えたことは優に認められるのみならず、追跡行為自体も暴行であり、また被告人西村には情を知らない被告人北内の行為をも自己の犯行に共同加功するものと認識し、これを利用した一面も認められるのである。

(二)  そこで進んで因果関係の有無につき考察するに、前掲証拠によれば、藤田紘一は昭和三八年三月、高等学校を卒業し大阪市浪速区北高岸町所在の木津信用組合事務員として勤務していたもの(未成年者)であるが、同三九年五月二六日午後八時半頃から翌二七日午前一時頃まで、得意先の知人らとスタンドバー等数個所で多量飲酒し言葉使いも荒荒しくなつていたこと、自己の知人と別れて、被告人西村に案内され新富旅館に赴く途中頃から益々言動が高圧的になつたことが認められ判示のように被告人西村に対し、横柄な態度をとり、同旅館二階においても一方的に因縁をつけ、暴行を加え、さらに同旅館の窓ガラスなどを損壊した後、同旅館西入口より素足のまま逃走したものである。藤田が右旅館から突如逃走した原因については種々推測し得るが被告人西村が同旅館を飛び出して行く際口走つた「電話をかけてくれ」という言葉を聞き、同被告人やその仲間らの報復を受けることを察知し、その報復を免れるために逃走したものと推認することも一見合理的であり不可能ではないが藤田は右旅館においては被告人西村に対し一方的な攻撃を加え、傍若無人の言動を示していたこと、当時「江戸の刑罰」という書物を読み当夜も同書を所持していたことなどからすると、むしろ、器物損壊をした(その際右手背部を負傷したものと推測される)後或程度酔もさめて我にかえり、右行為によつて、同旅館より警察に通報されたり或は警察に突き出されたりすることによつて蒙る不名誉や苦痛などを恐れ(このことは藤田が通行人等に対しことさら助けを求めなかつたことからも推認される)いわば器物損壊の犯人として逮捕されることを免れるため、矢庭に逃走したものと認めるのが事案の真相に迫るものと考えられるのである。

他方被告人西村は判示認定のように、同旅館における藤田の仕打ちに対し立腹し、同人に対し報復するために被告人北内の応援を求め同旅館東入口玄関において藤田の器物損壊行為を知つて、右報復の目的のほかに同人に弁償させる目的(被告人北内と同じく下地りくの自救行為の代行)をも持つに至つたのであるが、被告人西村にあつてはこの段階において藤田に対する報復の目的が払拭されたのではなく却つて一層憤激したものであるから、その後における被告人西村の行為は全体としては依然として違法なものであること多言を要しない。

そこで、判示大黒橋および道頓堀川の状況等について見るに、同橋の東側は同橋に沿つて水上に児童公園が造設されているため高さ約三メートルのコンクリートと金網とがあり西側欄干は高さ一・〇六メートル、幅〇・四七メートルもあるコンクリート造りの比較的大きいものであり同欄干を一気に乗り越すことは成人の男子にも通常極めて困難であり、敢えて乗り越すとすれば先ず欄干の上部をつかみ、のぞき窓に足をかけ、幅の広い欄干上に上がり切つたうえで飛び込みの動作に移らなければならない状況にある。さらに道頓堀川は川幅約五四、五メートル、水面から橋までは約五メートルもあり特に流れる水は汚水であつて常時悪臭をただよわせていることは公知の事実である(前掲検証調書、実況見分調書)。

藤田は右のような状況にある道頓堀川、大黒橋中央西側歩道付近まで逃走し、被告人西村はこれを追跡し同所付近で転倒した藤田に対しさらに一、二回足蹴りの暴行を加えたのであるが、その程度は、素足による足蹴りであつて極めて軽度なものであり、また被告人西村が被告人北内を片面的に共同犯行者として認識し、被告人西村において利用したと見られる被告人北内の前記竹箒による殴打行為も同じく軽度のものであつて被告人西村においてかような程度の暴行を加え、さらにその気勢を示したからと言つて右藤田が前記認定のような西側欄干を乗り越えて道頓堀川に逃走路を求めることのありうることなどは、同所付近の状況を熟知している被告人西村にとつては全く予見し難いことであつて、またこれを一般的に見ても、藤田の如き行為に出ることは、通常予見できない異常突飛な行動といわなければならない。藤田がもし被告人西村らの報復を恐れて逃走していたとすれば、逃走の途中において、いまだ営業中の店も若干あつたし、浅井正喜らの通行人もいたのであるから、容易に助けを求めることが可能であつた筈である。しかるに藤田はなんら助けを求めず逃走した理由は既に説示した如く同人が専ら器物損壊の犯人として逮捕されることを免れる目的で逃走していたことにある。同人が前記大黒橋中央付近で転倒した際も、被告人両名に完全に包囲されたものではなく従つて北方への逃走路は充分にあつたのであるけれども、たまたま水泳に自信のあつた(八尾スヱの司法警察員に対する供述調書)藤田は、川中に逃走路を選択し、自ら道頓堀川に飛び込んだものと認められる、すなわち、藤田は被告人西村らの暴行に耐えかねて或は路上の逃走路を遮断されて、それ以上の暴行を免れるためにやむなく、道頓堀川に飛び込んだものではないものと考えられるので被告人西村の前記暴行と、藤田の川中への逃走に起因する溺死との間には、相当因果関係が認められず、弁護人の右主張は結局理由があるといわなければならない。

以上の次第で被告人西村に対しても藤田の溺死の点につき刑責を問うことはできず、単に判示認定の暴行罪の限度で、刑責を負うものと認めるのが相当である。(なお被告人西村に対しても、藤田の負つた傷害につき責任を問えないこと、前記第二(五)説示のとおりである)

(裁判官 小川四郎 山路正雄 平井重信)

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